御祭神 藤原師賢公

由緒

藤原師賢公(ふじわらのもろかたこう)は内大臣師信公
の御子として生まれ、花山院師賢と号し和歌・管弦に長
じておられました。若くして後醍醐天皇の側近に奉侍し、
元亨以来の重大事に参与し元弘元年には尹大納言に任ぜ
られました。元弘の変(1331年)では天皇の御身代
わりとなり、比叡山に登り鎌倉幕府軍を討伐なされまし
たが、志遂げざるまま下総国に下りました。公は「主憂
ふる時は臣辱められ、主辱めらられる時は臣死す。縦ひ
骨をひしびしおにせられ、身は車裂にせらるるとも傷む
べきに非ず」と慷慨悲憤の思いを詞歌に託され、元弘2
年10月御齢32歳で建武の中興の礎として名古屋の里
(千葉県成田市)に薨去されました。翌元弘3年、後醍
醐天皇は公の功績を称え文貞公(ぶんていこう)の諡を
賜い太政大臣を贈られました。

『三條河原』

元弘の変(1331年)では、討幕の計画が漏れ、後醍醐天皇は皇居を脱し、笠置山に逃れられました。その際に、天皇が兵を参集する時を稼ぐため、そして比叡の僧兵の協力を得るため、公は後醍醐天皇の身代わりとなり、比叡の山に登り幕府軍を迎え討ちます。天皇からは赤い龍紋つきの御衣を賜り、天皇に成りすまして幕府軍を引きつけます。「小御門」と呼ばれる所以ではないでしょうか。

『比叡の山風』

鎌倉時代末期。藤原師賢公は内大臣藤原師信の御子として、清華家の家格を有する花山院家にてお生まれになりました。公は若くして、気概に富み、学が深く、後醍醐天皇は殊のほか寵愛なされました。即位されてからは権中納言に任ぜられ、側近として常に傍に侍り、奉持されておりました。

下総国へ

『志賀の浦波』

そして、1332年10月29日、公は32歳で名古屋の里(現在の成田市名古屋)にて薨去されました。名古屋の地に着き、十日後のことであったそうです。そのため、現在では「十日屋敷」と呼ばれ、小御門神社近くに屋敷跡が残っております。翌年1333年、後醍醐天皇は隠岐を脱し、悲願であった討幕を成し遂げられたのです。

『奈古屋の配所』

その後幾度の激戦の末、六波羅探題へと引き渡され、後醍醐天皇は隠岐、師賢公は下総の国へと配流されることとなります。

天皇は各地に散ったものを召し還されましたが、公のみは戻られることはありませんでした。天皇は非常に心を痛め、そこで公に太政大臣を贈り、文貞公という諡を賜りました。後に後醍醐天皇が行った国づくりを、建武の新政または建武の中興と呼びます。建武中興十五社は後醍醐天皇の建武中興に尽くした、南朝側の皇族、武将などを主祭神としてお祀りしております。

その後、明治天皇は国家に功績を挙げた忠臣を称え、明治15年、国の守り神として小御門神社を創建せられ、別格官幣社に列せられました。別格官幣社とは、国家に功績のあった人物をお祀りする神社で、戦前の社格制度であります。